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桐生の紹介
 
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地 理
 桐生は関東平野の北端、東京からは北西に位置する群馬県の南部にあります。桐生市の特色としては、美しい緑の丘や山々、市を流れる二つの川が挙げられます。季節が変わる毎に、桐生はその色を変えて行きます。
 桐生には渡良瀬川と桐生川という二つの川があります。渡良瀬川は北西から南東へ流れ、桐生川は北東から南東に流れ、市の南東部で渡良瀬川に注いでいます。
 桐生は本州中心部の足尾山脈の丘陵地帯に位置し、休火山の赤城山のふもとから、ほど近いところにあります。しかし、桐生を取り囲む他の山々は火山ではなく、美しい木々に覆われています。桐生川はそれらの山々から、市の北端にある鳴神山と根本山の谷間に形成されている梅田に向かって流れています。
 梅田の森は「日本の森百選」の一つに選ばれています。現在そこでは、たくさんの杉と赤松が見られますが、昔は落葉樹の森でした。春には、市内のいろいろな公園や学校、公共施設の周りで美しい桜の花が満開になり見頃の時期を迎えます。
 
四 季
 桐生には、春、夏、秋、冬があります。
 
 春は三月中旬に訪れます。四月、五月には市の道々では梅や桜、花水木が咲き誇ります。その中で、桜が満開の時期には、大勢の人が桜の木の下を陣取りカラオケや日本酒を楽しむ姿が見られます。
 桐生の姉妹都市から名付けられたコロンバス通りでは、ピンクや白の花水木、赤や白のアゼリアが咲き並び、その様々な色の取り合わせは、かわいらしい一枚の春の絵のようです。
 また、チューリップや他の春の花も市内の公園で見られ、プランターは、パンジーでいっぱいになります。春を感じさせるものは花だけではありません。他には、日本では春の果物として知られるいちごが入荷され、また、春は子供達が学校に入学し、学校を卒業した若者が就職する時期でもあります。
 
 夏は、二つの様態があります。まず、六月初旬から七月中旬までは雨期で、気温はあまり高くないのですが湿度が高いので、ときおり不快に感じさせられます。家々では軒先に“てるてる坊主”という人形をつるし、晴天を祈ったりします。しかし、この雨期は日本の米作りに欠かせない大切な役目を果たしています。
 夏の初めには吾妻公園で花菖蒲まつりが行われ、大勢の市民が、それらの青紫や薄紫、青といった美しくやさしい色調を愛でに集まります。
 雨期が終わった途端に急激に暑さが増し、八月の最も暑く湿度の高い時期に入ります。この時期、人々は“素麺”や西瓜、“かき氷”(削った氷に甘いシロップをかけたもの)等の冷たい食べ物を楽しみます。また、子供達は夜に花火をして遊んだりします。多くの家は軒先に風鈴をつるし、その涼しげな音で夏の風を堪能したりします。(体感的には涼しくなくても?)
 八月には大勢の人が桐生八木節まつりに繰り出します。この暑い湿った夏の間、蚊が急増するので、多くの家では、虫を追い払うための“蚊取り線香”を焚きます。“蚊取り線香”は一種のお香ですが、豚の形をした陶器の中で焚かれ、その煙は豚の尾のように渦を巻きながら出てきます。
 
 桐生の秋は晴天に恵まれ、周りの山々は黄金色になり、涼しく風通しのよい日々になります。十月には桐生市木である金木犀が咲き、その香りでいっぱいになります。この時期に学校の運動会が催されます。
 明るいオレンジ色の実をつけた柿木は秋が到着した印です。渋柿は糸でつなげた後、家のひさしから吊され、秋の太陽の下で乾いていくと食用の白かびが表面を覆い、不思議なことに甘いドライフルーツに変化します。これは、冬の間のお茶菓子として親しまれています。
 秋はきのこの季節でもあります。桐生では、きのこはいろいろな調理方でとても好まれています。
 桐生では、秋の終わりに向けて恵比寿講があり、その二日間、西宮神社の付近は、お守りや季節の食べ物を売る屋台で賑わいます。
 
 冬は情け容赦なく桐生にやってきます。赤城山から吹き付ける冬の強風として名高い“からっ風”は心暖かい市民に、骨にしみる寒さを運びます。この冷たい風にもかかわらず、雪は年に一、二度少し降る程度です。
この寒く乾いた季節の間、人々は“おでん”や“けんちん汁”(野菜を味噌で煮込んだ郷土料理)を“こたつ”(暖房器具のついた机)に入りながら楽しみます。暖めたお酒は心と体を温めるので好んで飲まれます。
 冬のスポーツもまた人気があります。桐生にはアイススケート場があり、群馬県のあちこちにスキー場があります。冬たけなわはお正月です。家族で神社やお寺を訪ねたり、お正月用の特別な食事をするのが恒例です。冬も終わりに近づいた頃、広沢町の賀茂神社では健康と繁栄を願う御篝神事を催し、市民は家の中で乾燥大豆を投げながら“鬼は外、福は内!”と叫びます。これは、悪霊を追い払い、幸運を呼び込もうとするものです。
 
自然
 桐生の丘や山には、熊、狸、狐、いのしし、カモシカが生息しています。また春には、市内のあちこちの森で鴬の歌声を聞くことができます。夏には、めずらしい虫達が姿を現し、子供達はクワガタムシ、甲虫を捕まえて遊んだりしますが、特筆すべきは蛍でしょう。今では僅少ですが、桐生の菱町黒川付近では、まだ見つけることができます。そして、蛍の成長を促す生息地を守るための努力がなされています。
 桐生は、市花はサルビアとする一方で桐生固有の野花を誇りとしています。それはカッコウソウといい、サクラソウのめずらしい品種で、ピンク色の花でできたシャンデリアの様な房が特徴です。このかわいらしい野花は春だけに見られ、鳴神山の落葉樹の森に生息しています。
 桐生は、森や木々に導かれるハイキングコースに囲まれています。吾妻山や鳴神山、根本山登山は一年を通して人気があります。また、柄杓山の頂上では桐生城跡があります。梅田のこの山頂上を通るハイキングコースでは、市内の壮観な眺めがお勧めです。桜の木が山の頂上周辺に植えられ、春のハイキングはとても人気があります。また、市の南部(広沢)の茶臼山ハイキングコースも親しまれています。
渡良瀬川と桐生川では魚釣りを楽しめます。六月の鮎釣り解禁時期には、川はウェイダー(腰まである長靴)をはいた釣り人があちこちに見られます。
 
市の特徴
 桐生は織物中心で、千二百年の織物の伝統を誇っています。その長い歴史のあとは市内中で見られます。床に太陽光を取り入れるためののこ屋根の工場や用水路はあちこちにあります。用水路は川から水を引くと同時に水車をまわし、手織機の原動力でもありました。また、用水路は離れた地域の米の水田や野菜畑に、水を供給していました。昔、生糸産業が栄えていた名残としての桑の木は、市の境界付近の大小区画で見られます。
 桐生は伝統的かつ現代的な職人にとって天国になりました。和紙作り、せともの、木工芸、家具作成、藍染め、織物/ファッションデザイン等の活動が賞賛されています。市内では、たくさんの芸術や工芸の工房を見つけられるでしょう。たくさんの保存状態の良い大正・昭和時代の幻想的で趣のある建物が、市の豊富な自然環境に芸術的な雰囲気を漂わせるのに一役買い、芸術家や工芸人をこの土地に引きつけているに違いありません。
 
娯楽
 桐生は小さい町なので、夜の娯楽はたくさんありません。若者は映画やボーリング、食事にでかけます。カラオケボックスでカラオケを歌うのは、世代を通して少人数のグループに人気があります。カラオケボックスは歌うためのオーディオ・ビデオが設置された個室です。また、その個室の使用料を支払ったグループには、食べ物や飲物が出されることもあります。パーティのことを“宴会”といい、通常、日本料理店の部屋を予約して行います。こうした部屋にはカラオケ設備があることもしばしばです。
 日本の他の市と同じように、桐生にもパチンコパーラーがあります。パチンコは男女問わず全国的な娯楽です。桐生が誇る三つの主要なパチンコ製造会社は地域のパチンコパーラーに最新式の機械を取り入れ、パチンコの人気を高めています。
 また、国の二十四あるレース場の一つである桐生競艇場で、一年を通じて日中または夜の競艇を開催しています。競艇場は、ちょうど桐生の境の外に作られた人工池にあります。競艇場は公費で運営され、その収益金を公共事業計画の補助に役立てています。
 桐生で食事は、ちょっとした冒険かもしれません。たくさんのレストランや食堂は長い歴史と伝統があります。もちろん、天ぷら、すし、うなぎ、そば、うどんのような日本の伝統料理もいつでも食べられます。桐生はうどんの町としての評判を得つつあり、麺屋では、たくさんの種類の冷たい又は暖かいうどん・そばを取り揃えております。また、桐生は、ソース付き豚肉とご飯の“ソースカツ丼”発生の地としても有名になりました。他に、“スナック”(飲み屋)や“居酒屋”といった店では、試す価値のある興味深いたくさんの料理があり、これらの店では、ビール、ウィスキー、焼酎、酒と一緒に食べるのに丁度良いおつまみがあります。
 他には、台車に厨房を取り付けた屋台というものが、夜にラーメンや焼売、焼き芋を売りながら、市内中を回っています。そのうち、屋台からラッパを吹き鳴らし、“焼き芋、石焼き芋!!”という大声が聞こえるかもしれませんね。
 桐生市民は、中国、フランス、イタリア、朝鮮といったいろいろな国の料理も好み、市内の外国料理レストランでは、いくつかの人気の料理を注文している姿が見られます。
 
「桐生八木節まつり」
 上州名物八木節音頭の起源は、1500年頃、戦国時代、越後(現在の本州にある信州)の上杉謙信が関東を攻略し、その時、住民を鎮撫の政策として孟蘭盆会に盆踊りを奨励したのです。その盆踊りうたを徳川幕末の1800年頃、上州新田郡木崎宿に居た越後生まれの“おさよ”という女性が「新保広大寺くずし」という口説節を唄い始め、それが木崎音頭となり、横だろ音頭となったのです。
 明治の時代になって、外国の文明が海外から到来したため、国民の生活環境も大いに変化し、そのなかに生まれ育ったのが地方民謡です。関東一円に伝わった盆踊りうたも、新時代の流れにのって上州の名物、赤城おろしの烈風と板東太郎は大利根の激流からリズムをとりいれて上州矢場勝、野州堀込源太(本名渡辺源太郎)という馬方が桐生-足利間を荷車を引いて往来しながら唄いはやされた新曲が八木節音頭のはじまりだといわれています。
 昭和の初期、時の桐生織物同業組合長彦部駆雄氏(九代目組合長)が桐生織物宣伝のため永楽町の組合事務所前広場において八木節大会を開き、全国の織物問屋を招待して盛況を極め一大反響を起こしたのでした。以来、全国の集産地において、上州名物八木節音頭による織物宣伝をつづけてきたのです。
 特に八木節が全国的に紹介されてまいりましたのは、1970年大阪で開催された万国博覧会場におけるお祭り広場で全国民謡が披露された際、群馬県民謡を代表して、我が桐生市の八木節が参加したことに始まります。その後、テレビ出演も急増し、地元桐生まつりの中心であります八木節躍りが年々盛況となり郷土民謡八木節の名声が高まったのです。
 
八木節まつりの歴史
 大正・昭和時代に桐生は織物の町として繁栄しました。春から夏にかけて、市内の産業を繁栄を祝い、たくさんの祭りが催されました。1964年、これらのいろいろな祭り(商業と産業の祭り、祇園祭、七夕祭り、花火祭り等)を盛大な一つのお祭りとしました。また、仮装行列がこの祭りに加えられ、この合同のお祭りは、桐生まつりとして知られるようになり、八木節が主要な催し物になったので、その祭りは桐生八木節まつりと新たに名付けられました。これは、上州八木節(上州は群馬県地域の旧地名)の一番盛大な催し物で、全ての人に親しまれています。
 この祭りは、八月上旬の連続した三日間に行われ、夕方には、人々が周りで八木節を踊り、矢倉の上ではお囃子が、快活な八木節を演奏します。
この祭りの間、桐生の大通りでは交通が規制されるので、歩行者は、いろいろな色の七夕の飾り付けを愛で、祭りならではの食べ物を楽しんだりゲームをしたりして、通りを歩きます。
 そこでは、“浴衣”を着たり、“下駄”をはくのが習わしで、綿の上着の“はっぴ”もまた人気があります。
 七夕の飾りは、太陰暦の七月の七番目の日に行われる七夕祭りの復元し、この祭りは琴座の織姫を崇めるものです。この祭りで、人々は願い事を短冊に書き、それを竹の枝に結びます。
 昔の祭りでは、手の込んだ演劇が上演され、時折、からくり人形も使われていました。これらの演劇は、市内の織物会社によって上演され、各々その優劣を競っていました。
 今では、八木節が祭りの焦点となり、数々の団体が最優秀となるべく技を競っています。
 
恵比寿講
 恵比寿講は、毎年、11月の19、20日に催される西宮神社の祭りです。西宮神社は、1901年に兵庫県西宮市の西宮神社から分霊勧請され建立されました。桐生のこの祭りは、その年に始まったものです。この神社は、商業と繁栄を司る七福神の恵比寿に奉献された神社で、織物産業が栄えた桐生の市民は、この神を厳かに崇敬しています。
 北小学校の近くに位置する西宮神社は、恵比寿講と呼ばれる活気のある祭りを毎年祝い、神社の近くでは、多くの屋台が建ち並び、幸運を祈る“お宝”や“熊手”、護符を売っています。これらの護符は店主や事業を営む人々に人気があり、その店や家の“神棚”に奉ります。
翌年の幸福を恵比寿様に願うため、大勢の人々が西宮神社の階段を上ります。
 また、そこではたくさんの屋台が軒を並べ、苗木や、焼き饅頭、お好み焼き、焼きそば、たこ焼きといったお祭りならではの食べ物を売ったりしています。
 この快活な雰囲気と秋の美しい銀杏の落ち葉に囲まれた神社は、恵比寿講を最も趣のある文化的な催し物の引き立てています。
 
桐生の歴史
 次の説明は桐生市教育委員会が発行している“ふるさと桐生のあゆみ”から抜粋したものです。桐生は、縄文時代(有史前)まで遡るその長い歴史を誇りにしております。以下の歴史の断片は、江戸時代から今日私たちの知るこの形になったときまでをあらわにしています。この同じ時代に織物産業は開花しだし、この土地の伝統と文化に密接に関係するようになりました。

荒戸新町の創設(荒戸は現在の桐生地域の旧名)

 1590年、桐生領は、徳川家康氏直轄地となった。これまで、黒川山中を含む桐生領五十四か村の村域は、梅田の柄杓山城を本拠とした(桐生氏を滅ぼした領主になった)由良氏の支配下にあった。由良氏は、後北条氏に味方したため、常陸牛久へ国替えとなり徳川氏の代官頭大久保長安の支配地へと替わった。大久保は関東入国後、代官頭となり榊原康政のもとで家臣団の知行割領国内の検知にあたった。
 1603年、家康は征夷大将軍(幕府の主宰者)となり各地を巡視し、駿府・江戸から書状により指示を与えた。山地と平地の接続したところに位置する八王子・青梅・桐生の町創設、石見・佐渡・伊豆の鉱山開発、東海道・中山道の宿駅整備、江戸駿府・名古屋の築城など、治水・鉱山・築城の技術に手腕を発揮し、幕府財政の礎を築いた。したがって、今日私達が知る桐生は、彼の管理下で創設されたのである。
 長安の地方支配は、武蔵八王子の陣屋を拠点として、各地に出張陣屋をつくり、手代わりを派遣して、支配にあたらせた。
 1590年、長安の命を受け、桐生領を支配するために派遣された手代わりの大野尊吉は、桐生領の触元としては、狭く、規模が小さいため、桐生川扇状地上に位置する荒戸原に新町をつくって町屋を移すことを考え、久保村の南端を基点として、北は赤城ノ森までの直線状五町余を用地に充てることとした。当時すでに、荒戸原扇央部に、北から南にかけて通路があった。
 この通路は1573年の由良成繁の桐生領支配と、1584年の由良国繁の柄杓山城への国替えにより、桐生・太田間の往来が繁くなったため(太田は由良氏の旧領土)、久保村町屋からの近道として、長い間本道であった美和社沿いの回り道を避けてつくられたものという。(現在の桐生西部にある山手通り)
 桐生・太田間の生活物資輸送は、新田堀・渡良瀬川・桐生川を経て、下瀞堀(中世期に桐生国綱のつくった堀割)へ至る舟運によった。
 大野は、久保村峯(現寂光院境内)の丘陵を削り取って平らにし、陣屋をつくり拠点とした。新町の町並みは、荒戸原の通路を広げて約2メートルとし、奥行約13メートルにして、なるべく多くの商人が大通りに面した店を持てるようにした。通路の西側にさらに通路をつくり陣屋への通路とした。周囲の町境に、土手を築いて郭とし、通路の西側に用水路をつくった。この水路は最終的に桐生川に抜けている。1591年に新町の町並みがととのったところで、久保村鎮守の梅原天神社を赤城ノ森へ移した。(後の天満宮)
 当初は五町余であったが、1605年に南へ11町余の縄張りをして、下瀞堀までの町並みをととのえ、三丁目・四丁目・五丁目・六丁目とした。そして、通路西側の用水路を延長し、下瀞堀へ抜けるようにした。
 大野は、創設した在郷町への支配下の村々から、子供2人以上の世帯では、そのうち1人を移住させたり、近郷からの入植者をつのったりして、戸数・人工の増加をはかった。このため、住民の権利は、旧住者も新来者も同等であり、排他の傾向はみられない。住民間の階級制もゆるやかで、常に新興の気風に満ちていた。
 桐生新町は、中世に封建制の城下町としてつくられたが、それとは違う在郷町である。したがって、ここには、武士団の経済をまかなうような商工業者はいない。
 荒戸新町の名は、1668年に作成された「上野国郷帳」のなかに見える。しかし、この時荒戸村は分村していない。荒戸村が分かれるのは1673年に行われた館林藩検地の時と思われる。桐生新町は、幕府直轄領や旗本領等、その他いろいろな管轄下におかれました。
 1824年には、家数850戸、人数3640、うち男1862人・女1778人であった。
 
絹織物産業の発展
 山地と平地の接続したところに発生した荒戸新町は、山地の生産物資と、平地の移入物資を交易した市場町の役割も担ってきた。天神社周辺で開かれるようになった酉の町(後に酉の市という)は、当初、雑穀・野菜・魚介・雑貨・小間物・衣類など、日用品の売り買いが中心であったが、近世中期以降、周辺町村の生産物資となっていた繭・生糸・織物も取り引きするようになった。
 桐生領五十四か村の領民は、1600年の関ヶ原合戦の時、徳川家康の軍へ旗絹を献上した。
 家康は、厩橋(今日の群馬県県庁所在地の前橋)城主平岩親吉を介し旗絹徴発を命令した。そこで、領内の稼働していた手織機2410台について、一機につき一疋ずつ、合わせて2410疋の旗絹を織りだし、天神社境内へ集めて戦勝祈願の後、献上したところ家康の軍が大勝した。家康は天下統一を果たし江戸幕府の礎を築いた。
 この吉例地を理由に、毎年2410疋の織物を小物税(雑税)として納めている。これは、領内にとって重い負担であったが、その結果、桐生の絹の名声を高めた。
 1646年に物納であった小物税は金納に替わった。桐生地域では旗絹の金納化により絹織物を商品として売り捌くこととなった。そして、不定期であった酉の町を六斎市とし、市場は天神社境内、市日は天神社の例祭にちなんで5・9の日(5日・9日・15日・19日・25日・29日)と決まった。
 こうして始まった六斎市は、織物の生産者と、近郷からの買次商人でにぎわい、やがて紗綾市と呼ばれるようになった。市場も1689年からは、三丁目神社境内でも開かれるようになり、二か所となった。このようにして、桐生の絹産業は繁栄した。
 江戸時代末期の日本開国により、商人は海外に製品を輸出するようになった。明治時代、大勢の絹生産業者が外国に旅し、アメリカやヨーロッパから、桐生に新しい手織機や染色技術を持ち帰った。水車による織機はアメリカから導入され、フランスで発明されたジャガード(紋織物装置)を操作する者も増えた。桐生は伝統的に先染め紋織物を得意とする機業地である。その意味で、紋織物生産の技術としてのジャガードの登場は特に重要であった。ところで、この時代の桐生の織機は、ほとんどが木製であった。
 
現在の桐生
 桐生は日本の織物産業の中心の一つとなってきました。明治時代以降、桐生の織物は世界中に輸出され、第二次世界大戦以降は、たくさんの生糸工場の生産は傾きましたが、合成繊維や他種の繊維が代わりに生産されるようになりました。また、桐生の織物産業にとって、刺繍を施したレース製品も重要な様相を呈しています。桐生はその世界的に有名な織物とファッションデザイナー達に誇りを持っており、毎年恒例の国際ファッションデザインコンテストにも焦点をあてています。桐生はファッションの町として、日本、そして世界のブランドになるよう励んでいます。また、桐生の姉妹都市、アメリカはジョージア州コロンバス市とイタリアのビエラ市も重要な織物の中心地です。
 
他の産業
 自動車部品製造工場で働く桐生市民もいます。織物産業は機械金属工業より3対1の割合で勝っていますが、平均従業員数は織物工場が10人のところ、機械金属工場では30人になっています。
 織物産業に次いで、桐生はパチンコ製造の中心としてもよく知られています。国内のパチンコの60パーセントが桐生で生産されています。
 最後に、大規模なきのこ研究所も市内にあります。
 
文化とスポーツ
 桐生は市民文化会館を完成させたばかりです。この建物は大演劇場やリサイタルホールだけでなく展覧会場、芸術工房、音楽練習場や会議室もあります。また、二つのレストランも建物内に設備されています。
 この新しい市民文化会館は市民の文化活動の中心になるよう、また東西の芸術、美術への関心を深めるよう望まれています。桐生にはアマチュア交響楽団があり、たくさんのアマチュアバンドや合唱団もあります。
 スポーツセンターは桐生の南西にあり、市民はテニス、野球、水泳、バスケットボール、バレーボール等を楽しめます。そこには、すもうや弓道のための施設もあります。
 先頃、桐生近郊の町や村で、屋内温水プール、レクレーション設備のあるカリビアンビーチという建物を共同建設しました。そこでは、オリンピックサイズの温水プールだけでなく、造波プール、ウォータースライダーやジャグジーもあります。この設備全体は、新しく建設されたごみ処理場のごみ焼却熱によって暖められています。
 毎年二月には、桐生市は市内を通るハーフマラソンを後援しており、これには、五千人を超える人々が参加します。毎年、参加人数が増えているこのマラソンは、市の冬の一大行事になっています。
 1999年、桐生第一高校の野球部は、夏の甲子園で優勝し、日本一になりました。これは、熱狂的な野球ファンの市民にとっては、たいへんな喜びとなりました。これまでに、桐生の野球部は、国内選手権大会が開催される神戸の甲子園に出場したことはありましたが、優勝したのは、今回が初めてでした。
  

桐生市国際交流協会
〒376-8501 群馬県桐生市織姫町1-1市役所本館2階
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